昭和五十一年十二月七日 朝のご理解
松永享四郎
ご理解第二十一節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
信心なければ世界が闇なり、金光教の信心だけが信心じゃない、沢山の信心がある、沢山の宗教がある、世界の国に無宗教と云うところが有ろうとは思われない、にもかかわらず、現代の世相と云うのは、もうそれこそ闇の夜と云う感じであります。
いつも、神様が肌に寒い思いをなさる程しの状態、地球上に死相が現われとるとすら云われる、今の、地球に住んでおる地上に、人間の住んでおる様子は、本当に肌寒さを感ずる、所謂、寒天危地の状態である。
そう云う様な事を朧気ながらでも判らせて貰う、本当になんとかせなければ、例えば、今の教団の在り方が、不思議に信者の数が減って行く、家繁盛、子孫繁盛の道を教えて下さる、教祖様の道を教えて頂きながら、繁盛どころか、段々裾細りになって行く、そこで、どうかせなければ、と云うのが、お取次ぎ成就信心生活運動の新発足と云う事だと思うのです、様に教団に於いてもそうであるし、なら世界を眺めてからも、どうとかしなければ本当に大変だと云う様な中に、真の信心が無いから、そう云う事だと云う事です。
教団に於いてもそうです、真実の信心、真実の信心、これが金光教の看板の様に云われとるけれども、その真実の信心がないから、段々、真実の信心がなくなって来たから、真実のおかげに繋がらないのだと、信心なければ、世界は闇なりと云う、それこそ、有象無象沢山の宗教はあるけれども、真実の信心がないから、現在世界は闇の状態である。
どうでも、ここに信心信心と云うても、和賀心が神に向かうて行くと云う信心でなからなければならない、神様に近づいて行くと云う信心でなからなければならない。
昨日、ある教会で総代をなさっておられる方が見えて、どう云う訳で、合楽だけが、こうしてごひれいが輝くだろうか、丁度その時、一杯お参りがあっとった、昨日のご理解を頂いて、そして、私のところに見えまして、その質問をなさる、で、ご理解を頂いて下さったんですか、と云うたら、はあ、頂きました、と、あれですよ、合楽の場合は、私がまあ云うならば、白紙になっておる、神様任せになっておる。
甘木の初代が、神様が人形使いなら、私は、操り人形じゃと、仰有っとられた、あそこに、甘木のごひれいがあったんだ、その方は、甘木関係の方なんです、云うならば、初代の親先生が、白紙になっとられたんだ、然も、神様の仰せに従って、所謂天地のご恩徳を判らせて貰うて、天地のご恩徳に添い奉る行き方を、それこそ、枯れ葉、枯れ枝一枚の上にも、仇おろそかになさらない行き方を実行なされて、だから、神様が、安武松太郎と云う人の心に、移りなさるに一番よい条件を、先生が作られた。
ところに、安武先生の云われる事が、思われる事が、そのまま神様が云われる事であろう、思われる事であろうと云う様な、教えを教導なさって、甘木のごひれいが輝いた様に、私は、合楽の場合もそれが云えれる。
私も、そしたら神様任せになって来た、これはもう、二十数年も前に、金光様から、難儀なことをお取次ぎさせて頂いた時に、金光様から頂いた、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになられますからと云う、み教えを頂いて以来、もう神様任せになる事に、もう一生懸命になったと云う事、白紙になったと云う事。
そして、これは、私なりではあるけれども、神様が示して下さる、神様が右、神様が左と仰有るなら、右左をそのままに、私は実行して来た事をです、只、神様任せになっただけではなくて、神様のお示しに添うて来たと云う事が、私は、今日合楽のごひれいであると思いました。
今、合楽では、合楽の信心が云うなら、完璧の域に入ったと云われるのですから、けれどもこれから、合楽の信者も、そう云う完璧の信心を、何十年間云わば習って来て、云わばある意味でマスタ-出来とるのですから、それを、実行に移す段階になっておる、だから、合楽の信者は皆、そう云うおかげを頂いて行く事でしょうと。
ところが、その教会の先生も大変偉い先生で、教団でも有名な先生なんです、ところが、私の方はどう云う訳でおかげ頂かんでしょうか、もう古い信者、もう年寄ばかりで、若い信者はおらん、と云う風に云われるんです、育っていないと云う事です。
どうしてでしょうねと云うて、私は神様にその事を念じながら、お話させて頂いておりましたら、昔の大学生でしょうね、私服を着てますから、それに将校マントを着とるのですね、昔の学生が着ていた、将校マントそれに大学帽を被って、久留米絣りの着物を着て、まあ何と云うですか、黒い袴をはいて、そして、腰には金の鎖の着いた時計をブラッと下げてある、鎖に時計まで下げて、そして、こう写真に写っておるのが、将校マントを肩の上にこうやって、ようあんな格好をしてますよね、将校マントは肩にこう半分はぐってある、そう云う状況を頂いたんです。
あなたのところの先生は、こう云う素晴らしいものを、持っておられながら、自分が大学生だと云うのを見せびらかすために、大学帽を被ってある、そして、下にはこういう着物を着とるぞ、と見せなならんのでわざわざマントはこうして、折っちゃる、金の鎖の着いとるのを、中にしもうとけば、良いけれども、外にこうブラッと下げてから、俺はこげなとを持っとるぞと下げてある。
そして、ステッキをこうしてついとる、もう何でん、もう見せにゃおかんと云う様な、在り方が、そういう立派な物を持っていながら、信者が先生を軽く見る様な事が、所謂、あなた方が先生を軽く見とる事が、おかげを頂かん元じゃろうねと云うて、そしたら、先生その通りですと云われるのです。
もう自分の知らぬ事でも、知ったごと云うちからね、信者に教えられるのです、そして、自分の若い時の、いろんなそげん若い時から、良か信心が出来とんなら、もちっと良か徳ば受けなさろうばってん、お徳を受けなさらんけん、信者が助からんと云うのです。
そこは、もう三代です、先生が勿論、学校は大学を出てあるのです、それで、何でも、かんでもが、自分の持っている全てをね、見せたがる、それで、かえって奥行きがない、むしろ、マントを着とるなら、マントを着とるだけで良い、スキッとそれがしとるなら、下にはどげん、良か着もん着ちゃるじゃろうか、又は、懐中にはどんな良い物を持っちゃるじゃろうかと云う様な、まあ深さがない。
だから、信者が浅はかになって、深さのない、浅いおかげしか受けられん、と云った様な結果になっておる、それだから、そう云う状態を信者が軽視する、見せびらかす事、そう云う様な自分は、あげな事も知っとる、こげな事も知っとる、あんまり見せびらかされる事が、かえって信者から軽く見られる結果になり、信者が先生を軽く見るところから、おかげが軽くなって、おかげが頂かれん。
先生も改まらんなさらんにゃんばってん、あなた方も改まらんなさらにゃいけんごとなりますたいね、と云うて、まあお話した事でした。
けれども、お話しながら、これは、合楽にもそげなところがありだんせんじゃろうかと思いました、私も、そげんところがありますもんね、もう何でんこう見せびらかさにゃいけんところが、本当にこれはお互いです、もうむしろ奥床しい、奥のある信心というものは、そんなにテラテラ人にテラかさない、見せびらかさない、だから、あの先生はどれだけ深いか判らんと、こちらには持たないものまで、持っとるかの様に見えて来る、それから、もう指輪でんなんでん、両手にはめちから、2本づつもした人もありますね、かえって見苦しいですよね。
これは、まあ私共の信心の上にも、そう云う軽薄な信心であってはならないと云う風に思いますけど、兎に角、云うならば、今の全世界にある、様々な宗教が、自分の持っておる良いものを、見せびらかしておると云うか、ために悪いものまで見せびらかしておると云うか、結果になって、信心なければ世界は闇、信心が無いも同じ様な事でありながら、宗教とは、ウ冠に示すと書いてあるが、神様が示して下さった事を教えるのが宗教だと。
なら、今、私は思う、神様が示して下さった事を教える宗教がどれだけあるのだろうかと思うのです、成るほど、初代、又は、教祖、宗祖と云う方達は、神様のお示しを頂かれて、ご自身が徳を受けられて、人が助かった、そして、その教えが残っておる、その教えの頂き方が、後への者が浅はかになっておる訳です。
浅くなって、深いところを判かろうとしてないのです、だから、その信心は光を無くしてしまって、助かると云った事ではなくて、只、論理的なね、教学的な意味合いによって残っておると云う事だけで、人の魂を清めるとか、助けるとかではなくて、働きを欠いておるのですから、信心なければ、世界は闇なりと云う。
もう信心の無いのも同じ様になっておるんだと、云う事を判れば判るほど、私は、今の合楽が愈々、この合楽に頂いている光と云うものを、愈々大事にしなければならないな。
愈々拡げなければならないな、所謂、光輪の世界を広めて行かねばいけないな、そこに、お互いが責任を感ずる位のおかげを頂かねばいけないと云う事になります。
皆さん、毎日こうやっておかげを頂いておられる、先日は、親教会の記念祭の時に、鹿児島さんから、原さんの弟さんが見えとった、先日から、あちらも八十年の記念祭で、お姉さん是非お参りしてくれと云うて、案内を出したけれども、それに対する返事がどう書いてあったかと思うと、本当にお参りしたい、又、久し振りにあんたとも会いたい、そして、あなたの信心にもふれたい、けれども、今の私は、一朝でも、朝のご理解を聞きもらすのが惜しうしてたまらん、とその原さんの弟さんが、云うておられます。
昨日、熊谷さんが朝のお届けをされますのに、今度、則夫さんの家に立派なマンションを貰われました、それで、そうから神様を奉祭したいと云うちから、小さいお社を求めて、ご神璽を納めてあるから、早う持って行ってあちらでお祭りをしてやりたいけど、どげん思うても心がはずまん、心が進まん、息子のところに行きたくないと云う親がある筈がない、どげな家じゃろうか、そして、行ってから一日でも早う、神様をお祭りしてやりたいと思う思いは、一杯なんだけれどです、日々お参りをさして貰うて、ご理解を頂く、と云う事が、それがやはり後ろ髪を引かれる思いで、行きたい息子のところにも、何か行かれん様な思いがするんですと、云うお届けがありました。
なぜでしょうか、私がお話が上手だからだろうか、私のお話が面白いからだろうか、それこそ、神様が示して下さった事を、その時その時にです、応じて明示して下さる、それを伝えて下さる、その事を、聞き洩らしちゃおれないと云う感じがです、行きたいところにも、行けんと云う事になるのじゃないでしょうか。
合楽の皆さんです、本当におかげを頂いておると云う事はです、神様がこの様に示して下さる、、それに、皆さんの心の白紙の状態の心にです、いつも任せきった心という様な心、その白紙の状態に、朝な朝な聞く、神様のお示し下さる事を伝えておる、云うならば、真の宗教、だから、これは金光教が真の宗教とは、あながち云えん事になりますよね。
成るほど教祖の神様のみ教えと云うものは、ちゃっとそうして残っております、けど、教祖ご自身はそれを確かに神様のお示しのまにまに頂いて、また、人にも伝えられた、ところが、頂き方というものがです、段々教学化して来る、教学する事が悪い事じゃないけど、教学化して来ると云うか、普通道徳並みになったと云うか、先日、竹内先生のご講話の中にありました様に、合楽の信心は、どこまでも超が付くと云われる。
超道徳だ、超常識だ、と云う意味の事を云うとられました様に、常識的に、云わばこのみ教えを頂いて判断してその程度に頂くから、浅薄になる、そして、金光教の全てを世の中に、こうして浅いものを、皆に見せびらかしとる様なもんだから、金光教には深さがないなあ、広さがないなあと云うところまで、なりかねないのです。
合楽の場合は、所謂、宗教とは神様が示して下さる事を教える事、だから、示して頂いておる事を生々しく皆さんに伝えておると云う事だから、合楽の信心を以って、真の宗教だと云う事が云えるでしょう、そうして、皆さんが真の宗教を頂いてです、教えを頂いてです、白紙になる稽古をさして頂き、神様が示して下さる事を行ずる、云わば信心する生活が出来る様になる事、それ自体が、和賀心が神に向かって行く事なんです。
そして、心に光が出来て来る、所謂最近、実意丁寧神信心と云う事をです、それこそ、子供でも為そうと思えば、成せる様な事をおろそかにしておった事に気づかせて頂いたが、それが実意丁寧神信心なんです、云うなら、合楽理念の確立、昨日のご理解なんか合楽理念の中に入って行くご理解ですね。
だから、そう云う事を身に付ける事を何十年間、あらゆる角度から頂いてきて、良く判る事は判って来たんだから、お互いがその気になって、白紙の状態になって、願う時、頼む時だけではない、そこから段々信心生活、所謂、不平の無い、不足の無い、只、有り難いと云う生活が開けて来る。
昨日、夕食を終わった後、久富先生から、足を揉んで貰うとる時に、丁度秋永先生と、杷木の市川さんが、二人で、私の部屋にやって見えた、昨日は、筑水連合会の幹部の何か、研修の様な事があったんです、その帰りにこちらに来られたんです、それで、寝ながら、足を揉んで貰いながらでしたけれども、こんな話をさして貰うたんです。
昨日、日田の坂本さん達夫婦が、ああして、毎日参って参ります、皆さんが朝のご祈念から、帰った後に参って見えるんです、で、昨日、お届けされるのに、もう十日も十五日もなりましたか、あちらの奥さんのお父さんが、1年1か月中風の様な状態になられて、言語が不自由になり、もう全然言葉が出なくなってしまった、それがその勿論、日々お願いしてございますが、もうそれこそ突然、もの云われる様になった、おばあさんが、腰抜かすと云うのは、この事じゃろうかと云われる位に、吃驚して里から電話が掛かって来て、おじいさんが、もの云う様になったと云う事。
それが、昨日、家族中の者におじいさんがね、1年1か月の間自分がもの出らんじゃった間に、家族の者が、おまえが、あんたが、私に対して、不親切だった、云うならばよう扱わなかった、と云う事をです、もうそれこそ、それより以上に云われるじゃろうか、1年1か月分をず-っと云われたそうです。
もうようそげん覚えちゃった、と云う位、それぞれに不平のある限り云わっしゃった、それを云い終わると同時に、ピシャッとア-と云うてもの云わんごとなった、もう、私はそれを聞いてから、もう本当に、もうこの神様ばっかりは、痛いでも、痒いでも、物事でもアッと云う間におかげを下さる事の出来る神様ですよね、頂けんなら、こっちがおろそかなんです、まだ。
その1年1か月ももの云われんとか、もの云われる様になったのも、アッと云う間なら、なら、ものが止まったのも、アッと云う間だった、如何に不平不足と云う事が、神の気感に適わんと云う事が判りますよね、おかげをくずしてしまうと云う事です、これは、だから、一事が万事に通じる事です。
久留米の石井喜代司さんが、腹立てちゃ馬鹿らしか、もう腹を立てたらね、もう本当に馬鹿らしいです、不平不足を云うたらおかげがくずれるです、目に見えてそんなにシャ-プな現われ方はないにしても、どこからか崩れるです、間違いないです、この神様はそんなに腹立ちや、不平不足を嫌いなさる、いや大体、そげん不平不足どん、お前が云う段かと云うて、おかげを下さってある訳です。
肉眼を閉じて、心眼を開くと、おかげばっかりです、そのおかげを云い、不足を云い、腹立てたりするからです、折角のおかげが、その様にして、崩れて行っておると、これは、素晴らしい、生きた教材だと、私は思ったと、云う事を話しましたら、市川さんがハ-ッと云うてから、そこで、畳に頭をすりつけて、今日は、こちらに寄せて頂いて良かったと、云うて帰られました。
これはもう絶対にそうです、だから、そう云う事だと思い込むことだし、そう云う事だと洗脳する事です、洗脳すると云う事は思いこむと云う事です、だから、間違った事を思い込んだっちゃ出来ん、おかげの頂かれる事を思い込まじゃいけんです、だから、今の合楽理念を土台として、実意丁寧神信心が出来るならば、それも決して難しい事ではない、やろうと思えば楽しさが出来る、有難さが出来る、心に光が頂けて来る。
正義先生が云っておる様に、兎に角スリッパ一つ揃えさして頂く事の中に、どこからか判らんけれども、有り難いとが、湧いて来る事だけは事実なんです、私は、ここの料亭にまるっきりスリッパ揃えに来たんじゃろうかと云う位、例えば、宴会なんかに行って、お便所に立つたんびんにスリッパが乱れとる、それを行くたんびんに、それを初めの間は、スリッパを揃えに来とるとじゃどうかと思う位、錯覚が起こる位、それを段々重ねて行けば、それをさせて頂いておる事が有難うなって行っておると云う事が、今、合楽で云うておる心行。
為そうと思えば、子供でも成せれる事をなして行くと云う事、もう実行して、昨日、熊谷さんが云うとられました、本当に親先生、親先生の云われる事を実行してすれば、絶対おかげを頂きますねと云うて、お届けがございましたが。
シャリベン太郎が行くと云う、金の扇子が開けたと云う、この方と云うものは、私共は、給料取りでもないでしょう、おばあさん一人が、あの大きな家を守っとられるだけでしょう、只、息子さんから、送金しとられるだけでしょう、それにもかかわらず、思いがけないところから、シャリベン太郎が、熊谷さんの家に走り込んで来るおかげを頂いとりますと云うておられます。
だから、親先生が云わっしゃる事を本当に行ずる気になったら、頂けないのはおかしいです、いや、家にはまだ、シャリベン太郎が走り込んで来ん、まだ、あんたが実行しとらんからたい、と云う外はないです。
神様は、その様に間違いない働きをもってです、只、走り込んで来よるけどね、不平を云いよろう、不足を云いよろう、だから、回れ右して、向こうさえ行きよるです、と云う事になるのではないでしょうか。
合楽理念を立脚して、実意丁寧神信心が出来るならばです、シャリベン太郎が走り込んで来ると云うのですから、走り来んなら、あんたが、腹を立てたり、不足を云うたりしよるから、走り込んで来よるとが、右の方にさえ回ったり、左の方にさえ回ったり、回れ右しよったりしよる訳です、だから、本気で然もです、それは、神様が示して下さる事を、こうして、日々皆さんに聞いて頂いとるんだから、これが真の宗教だ。
そう云う真の宗教がです、なら、今、手を出して、指折り数えて、ははあ、何々宗が、何々教か、じゃろうと云う宗教がないと云う事です、只、我田引水的な事を云うて、その信者獲得に、只、血道を上げとるだけで、真の宗教にもとる宗教ばっかりだ、成るほど、世界が闇になる筈だ、そう云う意味で合楽の信心は非常に貴重な存在だと思うんです。
それで、心に喜びの種を蒔いて、その喜びの種を、愈々、実にして行くと云う信心、それをわが心が信心とは、信心せよ、信心とはわが心が神に向かうのを信心と云うのじゃ、であり、神徳の中にあっても、神様の云う事を、示し下さるのを、守らなかったら、ご神徳の中にあっても、それは、油一杯あっても、芯がなからなければ、火が灯らないと云事と同じである様に、教えて頂く事を、一心と立てて行ずるところに、おかげは必ず絶対だと云う事であります。
火が灯らなければ夜が闇と云われるどころではない、家庭が闇であります、信心なければ、世界が闇と云うのは、云われるのですから、本当に光が放つ事が出来れるおかげが伴って来る、人間の幸せが、条件が足ろうて来るほどしの実力を持った信心が、愈々、拡がりに拡がって行くと云うおかげを、皆さんがご用の一端を担なわして貰おうと云う位な、一つ気持ちにならなければならないと云う事でございます。
本気で神様のお示し下さる事に、行ずる気になる事、白紙の状態になる事の精進をさして頂く事にそこから、成るほど、自分でも合点が行くところの光を、周囲に拡げて行く働きというものは、そこから頂く、合楽示現活動に参画すると云うのは、そう云う信心を踏んまえての事でなからなければ、本当の運動に参画する事は出来ないと云う事であります。 どうぞ。